能を鑑賞するのは難しいことではありません
日本が世界に誇る伝統芸能。能をこう認識している人も多いと思います。一方、実際の舞台は退屈でどう鑑賞すればいいのかわからない、こんな感想もよく聴かれます。
能を一言で定義すれば演劇といえましょう。
ただし舞踊と音楽と演劇とが一体となった総合芸術であること、シテ(主役)が仮面を用いる場合が多いこと、本説(典拠)を古典に求めた点など、かなり特殊な演劇といえます。
能のドラマは語(声楽)によって進行しますが、立チ方(登場人物)と、地謡という舞台右手に並ぶ斉唱団が謡を受け持ちます。曲の冒頭は立チ方のコトバというセリフのような謡が多く、やがて音楽的な謡に移行し、最後は地謡の力強い謡で終わる曲がほとんどです。 舞台後方に右から並ぶ笛、小鼓、大鼓、太鼓(太鼓は曲目によって入らない)という三~四人編成の囃子が次第に謡に重なり、明確なリズムを刻みます。感情の高まりから日常の会話が歌になる。伴奏が自然に流れる。ダンス・シーンが続く。ミュージカルでよく見かける手法が能でも用いられているのです。ただ抽象的な舞を一曲のクライマックスで舞うのが最も能らしい主張です。
能面は能のすべてをつかさとる絶対的な存在。一見動かないように見える能の演技。象徴的な表現。これこそ一般の演劇と大きく違う点ですが、これは能面が編み出した技術と考えられます。
世阿弥はよい能に「本説正しく、珍しきが、幽玄にて、面白きところ」と厳しい条件を設けました。能の幽玄とは優美という意味。新鮮で美しくしかも見どころがあることは、すべての芸術が追究する理想の姿でしょう。例えば『源氏物語』、『平家物語』など本説を主に古典に求めた能。このような文学作品が現代においてはそう身近な存在ではない点に、能が敬遠されるひとつの要因があるかもしれません。でも『葵上』や『清経』の能には人間の強さ、弱さ、悲しさなど、人生の持つ普遍的なテーマが鋭く描かれていて、心を打つ名作としてゆるぎない評価を得ています。
能に独特な魅力と芸術一般に共通の魅力。
これらをすべて最初から理解するのは困難かもしれません。見えないものが見えてくる。さまざまな美の結集がひとつの能を作り上げている。舞台に集中できると、この実感が沸いてきます。能と時間を共有する際の充実感。これが能の醍醐味のように思えます。(三浦和子)
(檜書店刊 「まんがで楽しむ能・狂言」39・40ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)
現在、能のレパートリーはおよそ二百五十曲。その内容は実に多岐にわたっているのですが、初番目物・二番目物・三番目物・四番目物・五番目物と江戸中期以降の番組編成から派生した考え方で能を分類するのが普通です。そのほか神・男・女・狂・鬼、あるいは脇能物・修羅物・鬘物・雑能物・切能物という役柄や内容からの分類も、ほぼ同義と思われます。能の筋立てにはある類型が認められるために、このようなことが可能なのでしょうが、「脇能だからスラスラとよどみなく」などと演技の基準にもなるほど、これらの分類には大きな意味があります。そしてこの分類のどこにも入らない『翁』は「能にして能にあらず」と能が芸術的に完成する前から演じられてきた演目です。天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈る神聖な儀式であり、現在でも新年の初会の冒頭に演じられたりします。
初番目物
初番目物は神をシテとする能。脇能物とも呼ばれていますが、神の化身が神社の縁起を語り、後半にさっそうとした舞や力強さを示す構成がほとんどです。筋が劇的に展開するというような面白さには欠けますが、ここで味わうすがすがしさには独特の魅力があります。宗教的な雰囲気を背景に能が演じられていたころの名残が伝わってくるジャンルといえるでしょう。
二番目物
二番目物は男性の能。源平の武将が戦いに落命した後、修羅道に落ちた苦しみを描くものがほとんどで、修羅物ともいわれています。古くは帝釈天と阿修羅の戦いを描く、どちらかというと荒々しい内容の能が主流だったようですが、世阿弥が戦の場面に和歌、琵琶、笛などの脇雅な趣を矛盾することなく取り込むのに成功しただめ、強さと優雅さをあわせ持つ傑作が生まれました。
三番目物
三番目物は女性の能。鬘物ともいわれますが、美しく静かな舞を舞うのが典型です。このジャンルの能は動きが少ないのですが、ここに能でしかできない主張があります。じっとすわる姿や動かず立っている役者の回りの空気がゆらめくような一瞬。動かぬはずの能面の表情が美しく際立つ瞬間。観客にとっては最も素晴らしく、役者にとっては最も難しい能の演技に出会える時なのです。
四番目物
四番目物、あるいは雑能物とはどこのジャンルにも当てはまらない能の数々。流儀や立場によっては四番目物とも五番目物とも解釈される演目もあり、四・五番目物といういい方もあるほどにバラエティーに富んでいます。狂女もこのジャンルの大切な主役ですが、能での狂とは、子供を失った悲しみに叫乱れる母親から芸尽くしを見せる芸能者までの幅広い意味に使われます。いわゆる一般のドラマに近いような、現実に生きている人間による現在進行形の能も多く、ショー的な要素をふんだんに含んだ人気曲が沢山あります。
五番目物
五番目物、切能とは最終プログラムのための能で、前述したように四番目物とオーバーラップするものもあります。鬼や妖怪が演じるきびきびと強い演技が眼目の能もあれば、お酒の妖精が尽きぬ酒壺をことほぐ能や、想像上の霊獣、獅子が牡丹の花に舞い戯れるというめでたい演目も揃っています。このように祝賀の気持ちで一日の公演を終了する発想は、一般の演劇には見られぬもの。附祝言という、最後の能の終了後に地謡が脇能などの一部を謡う形に省略される場合もあります。
観阿弥、世阿弥父子
現在演じられている能には作者不明の演目も数多くありますが、南北朝から室町後期にかけて活躍した能作者が創作したものも伝えられています。まず、能を芸術的に完成させた観阿弥、世阿弥父子ですが、前者が対話の面白さを得意とし、後者は夢幻能という形式においてシテ一人の演技にすべてを集約させました。世阿弥の息子である観世元雅は人間の抱える悲劇を深くえぐった作品を残しています。深遠な宗教的世界を繰り広げた金春禅竹は世阿弥の娘婿。応仁の乱という戦乱の世において、見た目の派手さを追求した親世信光。異国趣味に新機軸を求めた金春禅鳳。大勢の人物や新奇な趣向で舞台の変化をねらった観世長俊は室町後期、最後の能作者とでもいうべき人物です。この後、江戸幕府の式楽(典礼用の音楽)となった能は例外を除いて新たな作品の創作を停止してしまいます。新作能などの試みは明治以降に行われるようになりましたが、現在までに創られた能は二千を超えるといわれています。
長い歴史を通じて多くの作品群から価値のあるものだけを選び、再演を重ね演出を練り上げてきた能。現在の演じ方は高度に様式化されたものですが、個々の作品にはそれぞれ作者の個性とその時代の要求とが反映されているのです。能の作品の広がりを考えるということは、七百年に近い伝統の重み、つまり能に携わってきた人々の努力と情熱を再確認することにほかなりません。
(檜書店刊 「まんがで楽しむ能・狂言」146・147ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)
狂言は室町時代の現代劇。本説(典拠)を古典に求め、音楽と舞とで舞台を進める能に対して、狂言はたくましく生きる庶民の姿をセリフによって伝えます。 面を使う役柄もありますが、素顔で演じるものが大多数。一見対照的ともいえる狂言と能ですが、実は同じ空間を共有する兄と弟として、互いに助け合い、協力しながら生きてきました。
ほとんどの狂言は三人ぐらいで約二~三十分の喜劇を展開して行きます。その笑いの中には人間の本質を突く鋭い視線が感じられて、思わず自分自身を振り返ることがあります。
世阿弥は能の演技を「舞歌二曲」(舞と音楽が一体となった技術)と説きますが、狂言の基本もまったく同じ。日常のどんな動きも型として美しく処理しています。リズムの流れを重視したいい回しはそのまま歌になる。大らかな笑いの陰に息づく確かな技術と伝統。狂言のしたたかな主張です。 (三浦裕子)
(檜書店刊 「まんがで楽しむ能・狂言」62ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)
- 能舞台にはなぜ松が描かれている?
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葛西能舞台の鏡板、ここに松が描かれているのはなぜですか?素朴な質問ですけれども、やはりよくわからない。なぜ松なのでしょうか、どこへ行っても、能楽堂は松です。
山崎もともと能は神社やお寺の境内を使って演じていた。当時のお寺は神仏混淆ですから、お寺にも神様が降りてくる場所が必ずあるのね。それが「影向の松」なんですよ。
葛西「影向の松?」
山崎神社仏閣にあって、そして神様がそこへ降りてくるのが影向の松だね。松は非常にめでたい植物だとされているわけだし。もともと舞台はなくて、神社の境内でやっていたわけだね。 そうすると何か一定の場所がなくちゃいけないから、人が見るために少し高くして、そこに芝生が植えてあったわけですね。向こうから出てきて、この舞台で何かやる。見ている人も芝生の上に座って見ている。だから「芝居」という言葉ができたわけですよね。
葛西今は見所といいますが、昔は土草(芝生)の上に座って見たから「芝居」。そしてそこには松があった。それが影向の松。神様がそこに宿る、ご神木ですね。
山崎ですから舞台をつくった時も、野外でやった時のように、松を背景にしたのだと思いますね。
葛西脇鏡板には、竹も描いてありますね。
山崎老松に対して、若松なんですね。
葛西若々しい竹。
山崎成熟と若さの象徴なんです。
葛西横浜能楽堂の鏡板には松以外に梅も描かれています。
山崎本当はいけないんですよ、鏡板には梅なんか描いちゃいけないんです。これをつくられた方が、「加賀宝生」という言葉があるほど宝生流が盛んだった、加賀の藩主前田斉泰公だったわけですね。その時に、宝生流の家元だった宝生九郎に舞台の鏡板には何を描いたらよいか聞いたところ、「松以外のものは描いちゃいけませんよ」と言われたわけだ。それでも梅を描いた。
葛西なぜでしょう。
山崎ここがおもしろい。 前田公と宝生の家元は仲が悪かった。
葛西描いてはいけないものをわざと描いた。いやみの名残ですね。
山崎しかも、前田公の祖先は菅原道真ですから、前田家の家紋も梅鉢なんだね。それで梅を描いた。
葛西おもしろい話ですね。舞台についてはおもしろい話がいろいろとあります。
(檜書店刊 「能・狂言なんでも質問箱」16~18ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)
- 能の色について
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葛西葛西 能楽の世界の色について、お話いただきましよう。
山崎山崎 能の中では色というのは大変難しいことなんですね。しかも、はっきり決まっているんですね。色というのが。装束をまず大きく分けると、「紅入」、「紅無」ということがあるんですね。紅入っていうのは赤い色が入ってる。紅無って無色っていう意味じゃなくて、赤い色が入ってないのを紅無と言うんです。それ どう違うのかというと、襟色に赤い色が入っていれば年が若い。きらびやかな女性とか、若い公達とかを表すことになるんですがね。紅無というと年のいった方。うんと年をとらなくても、中年でも、子持ちとか、奥さんとかというのは紅無になるんですね。だから、普通は若い女は赤い襟を着けてますけども、中年になりますと浅黄になるんですね。そういうふうに色を遣う。
能の中では、色の一番位の高いのは白なんですね。ですから、若い女でもシテ方は二枚重ねて着けます。シテ方以外は二枚重ねるということがないんです。襟の色でお話するほうが一番わかりやすいと思うんで、お話しますと、女の役で赤い襟を一つ着けてると、これはだいたいツレの役ですね。それが今度、白と赤。二枚重ねてシテになります。あるいは赤二枚重ねる。あるいは白二枚重ねる。どう違うかというと、赤一枚よりは白赤のほうが位が高ぃ。白赤よりも白二枚のほうが位が高いんですね。それは役によって、その位が違う。
シテしか二枚重ねることはないと申しましたけども、ワキで二枚重ねるものがあるんですね。これは非常にワキとしては重い役のときに二枚重ねる。それは、浅黄と赤と重ねるんですね。それはどういう役かと言いますと、<紅葉狩>のワキ。平維茂(たいらのこれもち)ですね。それと<張良>のワキ、張良の役。もう一つは<大蛇>。<大蛇>の素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。この三曲は、ワキ方の重習(一子相伝)(※)なんです。これは二枚重ねなんですね。それ以外は、ワキで二枚重ねることはないんですね。だから、色ってものが非常に能の中では大事にしてある、ということを忘れないでいただきたいと思うんですよね。
※重習 能の曲の内で特別に重視するもの
(檜書店刊 「能・狂言なんでも質問箱」55~56ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)
- 拍手はいつすればいいか
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葛西能楽鑑賞のマナーについてです。昔は、最後に拍手をしましたが、今は何度もします。正しい拍手の仕方、鑑賞の仕方を教えてください。
山崎これは私もね、よく聞かれるんですけどね、ほんとに能を一番見て感激したら、やっぱり拍手したくなりますよね。能というのは幕がないから、幕がそっと下りたときに拍手するならいいですけども、これがないと、いったいどこで拍手していいか判らない。まだ舞台に囃子方も地謡も残っている。普通の能だと演者が入るときには、まずシテが入る。それからワキが入りますよね。そして今度は囃子方、地謡が立って、おおかた入りかけたときに打つのが僕は一番、理想的だと思うんですよ。
葛西今は、シテが入るときに打ち、そのあと五月雨式に・・・。
山崎あれだと、シテが入りかけます、そうすると打ちますね。パチ。今度ワキが入りかかってくるでしよ、パチ。囃子方が入ると、パチパチ。聞いている方ではね、 ああ、やっとすんだ、やれやれやれ、パチ、パチ、パチ。
葛西感動の拍手ではなく。
山崎そういうふうに聞こえるんです。もっとひどいのは、留拍子を踏んだときに、パチ、パチ。たいがいずっとそこまで寝てて、留拍子でハッと気がついたらパチ、パチ。そういう人が多い。つまり見てないんですよ。
葛西大切な留拍子の響きを楽しまなければ・・・。
山崎うん。それをね、拍手することは礼儀だと思っているんじゃないの。ところが、拍手することはね、冒涜である場合もあるね。先代(二世)梅若万三郎が<姨捨>をやったときのことだが、シテが入っていったらね、 誰も拍手しませんよ。つまり、できない。静かぁに入っていくときにね、拍手したら壊されちゃいますよね。<姨捨>はワキが先に入っちゃうわけですよ。そして、シテに続いて、囃子方が入り終わるころに拍手したんですね。その日のお客さんなんかやっぱりいいお客さんだったと思いますね。
葛西つまり、その静けさを楽しむ、余韻を楽しむ。私もね、<関寺小町>を見て、あのコツ、コツという杖の音が、揚幕から消えた後もずっと聞こえているんですよ。それを耳にしたとき、ああ、いいなあと、思ったことがありました。
山崎そこがやっぱり大事なことでね。だけど激しいものがありますよね。鬼物やなんかで、ダーッと、<土蜘蛛>なんかでもバッと切られて、ひっくり返ってバーツとすると、ワー、パチ、パチとくるのは僕はいいと思うんですよ。だから結局拍手するというのは、できるかできないかというのは、その人の感性の問題だね、これは。
葛西そうですね。だからどこで拍手しなければという決まったものではなく、感性で。能・狂言を楽しんでよかったという拍手ならいいということですね。
山崎いいということですね。
(檜書店刊 「能・狂言なんでも質問箱」75~77ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)
- 能は舞う、狂言は勤める
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葛西狂言方和泉流の野村萬斎さんが、映画『陰陽師』で演じた舞は、狂言をもとにしていたといわれています。狂言の舞とはどのようなものなのでしょうか。イメージとしては、 能の舞は静かな動きの迫力ですが、この『陰陽師』の舞は、能や、日本舞踊にはない魅力と美しさを感じたのですが。確かに、最後に狂言の舞のようなものがありますね。あれは狂言の舞ですか。
山崎いや、全然狂言のようではないですよ。むしろバレエみたいなものですよ。
葛西袖をひるがえしていました。
山崎そうです。袖ひるがえして。ああいうのは狂言に全然ないですから。だから、狂言のようなというのは当てはまりません。ただ、狂言のような型ではないけども、基本ができていなかったら、ああいうふうにきれいには舞えないでしょうね。これは言えると思いますよ。
葛西答えとしては、狂言の舞ではないけれども、基本があるから美しい姿になった。
山崎ちゃんと型になってましたから。フワーッと風が流れるようになっていたんですね。
葛西ただ、こんなふうに狂言役者がやっているものを観て、狂言をご存知ない方が、「あっ、これは狂言だ」と思う場合がありますよね。
山崎そうですね。そういうこともありますね。
葛西実は狂言の舞ではないけれども、基本を訓練している、ということですから、当然狂言の中に占める舞の位置づけは大きいということでしょうか。
山崎それは、その舞そのものではなく、萬斎君というのは、基礎ができているから、座る時でも非常にキチッとしているんです。台詞なんかでも、狂言の台詞でも何でもないけれども、非常にメリハリがあるしね。あれはやはり、基礎がキチッとできているから、ああいうところへ出ても遜色ないのでしょうね。それは見事だと思いましたよ。
葛西能は「舞う」と言います。狂言は何と言うのでしょう。
山崎狂言は「勤める」と言います。
葛西「勤める」。狂言にも舞う部分もあるが、原則として「勤める」。
山崎能は全体が舞なんですよ。だけど狂言は台詞のところがあるし、いわゆるドラマのところがありますね。ですから、狂言全体だと「勤める」ですね。中で舞うところは「舞う」ですけれどもね。
葛西同じ古典の芸能でいうと、歌舞伎の場合は踊りや芝居などいろいろありますが、やはり勤めると言います。相勤め申し候など・・・。
※『陰陽師』 平成十三年公開。 監督・滝田洋二郎
(檜書店刊 「能・狂言なんでも質問箱」108~110ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)
- 能の鑑賞
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山崎いろいろ勝手なことを申し上げてきましたけれども、能に関する知識を知ることも大事なんですけどね。片々たることを知っても、能を鑑賞するうえにどれだけ意味があるか、ということがあります。実は一番大事なことは、能の本質を見ていただきたいんですね。流儀によって、扇の置き方でもこっちに置いたりあっちに置いたり、それから太鼓だって流儀が違えば、締め方が違ったり。関係ないんだ、ほんとはね。全く関係ない。どうしてですかと言われると、流儀が違うからとしか言いようがないんですね。だから細かいことを知っていても、本当は能の鑑賞にはほとんど役に立たない。何も知らなくてもいいんですよ、ほんとは。一番大事なことは、能をどう見るかということなんですね。
再々言っていることだけれども、見るためには知識よりもやっぱり感性なんだな、問題は。知識がなくたって感性があれば、いいか悪いかとか、気持ちがいいとか気持ちが悪いとか、快いとかというのは、誰でもわかるんですよね。カラシなめたら辛いんですよ。お砂糖なめたら甘いんですよ。そのくらいの感覚でいいと思うのね。そして今、甘いとか辛いとかというのも、皆さん声を出して言ってもらいたいですね、見た方が。実は能を見て何か言っているのは、ほんとに一つかみの能評家とかね、評論家とかだけなんです。その人たちのためにやっているんじゃないですよ、能っていうのはね。皆さん一人ひとりが鑑賞者なんですから、そういう方たちの声が跳ね返ってこなければ、ここでいくら勉強してもね、ひとつも成長しないんですよ。
偉くなった人はね、「俺の能を見てわからないやつは・・・」、みたいなふうに舞っている。そういうありがたい能を拝見して、「結構でございます」と、いう人も多いんだよ。実際おもしろくてもおもしろくなくても。それでは能っていうものは、いずれ滅びてしまう。だんだん先細りになっちゃう。なぜかというとね、見る人がいなくなったら、もうこれ、おしまいなんですよ。だから鑑賞者が、本当に厳しい言葉を返さなければ。ただ見てね、そのまま帰っちゃあいけないの、ほんとは。何とか言って帰ってほしいの。つまらなかったら、つまらない、と言ってもいいしね。金返せ、と言ってもいいしね。そのくらいのことがあってもいいと思うんですね。
それからもう一つは、そのために、この能は何だろうと知る必要があると思うのね。だけど、それだけのものが舞台に出てないじゃないか、努力してないじゃないかと。これも役者に私なんか今言いたいんだけども、謡本なんか見ると、何の曲の何の役をするときにはどういう面をつけて、どういう装束と、みんな書いてある。その通りやればその役になれるかといったらそうじゃないんだ。極端に言ったら、違うものを付けたって、それになれるの、本当言うと。一定の枠は決めてある。
しかしやる人がほんとにその役になって、その曲をやれるかどうかというのは問題なんだね。だから見る方も、あ、今日は面が違うじゃないか、ほんとは「増」という面をつけなきゃならないのに、「若女」っけているのおかしいじゃ
ないかといっても、しかしそれだけのものを表現する力のある人だったら、それは構わないです。能面が変わっていようが、装束が変わっていようが・・・。
そういうふうな感性をぜひお持ちいただきたいというのが、私の最後の言葉です。
(檜書店刊 「能・狂言なんでも質問箱」180~182ページより転載 檜書店HP http://www.hinoki-shoten.co.jp)